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和田節子の思い出物語

書き尽くせないけど、和田先生ってすごい人

終戦時の体験
DSCN9132彼女が10歳の時(今でいう小4)に終戦を迎えた。終戦間際、彼女は朝鮮で両親、そして弟の4人で暮らしていた。「終戦を迎える8月近くには、米軍の爆撃も激しくって、日本の戦闘機が迎え撃っていくんだけど。ことごとく撃ち落されていくの。バラバラ~ばらばら~とね。そうして次の日には、女学校のお姉さんたちが死体を回収するのよ。私たちもそれを手伝った。大きなものは運べないから。ちぎれた足や腕。たまに頭だけが転がっていることもあってね。頭って、けっこう重いのよね。」当時の記憶を思いのまま話してくれる和田先生。「いまも目をつぶると鮮明にその時の景色が思い出されるの。そういえばこの前、大雨で警報が鳴ったのね。ウウォ~ンって、わかる?そしたらあの時の記憶がよみがえっちゃってね。どこに行ったらいいのかわからなくなっちゃって(笑)一人でじたばたしてたわ」と。
何とか朝鮮からの最後の引揚船に乗船できたものの、船内での生活は最悪だったという。そして、ようやく山口県の港に船は無事に着いたものの、着岸した船には桟橋はなかった「大人たちがね。船と岸壁をつなぐロープで降りろっていうの。でもねロープって言っても、子どもにとってはすっごく太くってね、周りを見ると、ぶら下がって降りていく人の中には、力尽きてパタパタと海面に落ちていくのね。」せっかく無事に日本に帰ってきたのに?「そうなの、おなかの大きい妊婦さんや、背中に子どもをおぶったお母さんが落ちていくの。それを見ながら、弟と一緒に必死で降りたのよ」壮絶な記憶の断片。
その後、大阪に行き闇市で生計を立てた。「少しの間だけど、私もお店を手伝ったのよ」へぇ~どんなことしていたんですか?「私はね、金庫番。物がどんどん売れるとお金がたまっていくでしょ。すると盗まれちゃいますよ。お金を入れたバケツの上にあたしが重石代わりに座って、盗まれないように必死だったわ(笑)。そのうち父は、わたしたちにこんな生活はダメだって、今度は兵庫の叔父に引き取られて、山深いとこでね。おばさんは厳しい人で。ある日弟が怒られて、蔵に入れられて。ご飯を食べさせてもらえないときがあったの。そんな時私は、おばさんの目を盗んでご飯をそそっと隠してね。後で握って、こんな小さな穴から弟にそのご飯を渡したの、ありがとうっていう弟の頬に、光る筋が見えたのを覚えているわ」その当時学校には行けていたんですか?「たまーに行かせてもらえた。ただ藁靴がなくってね。みんなで交代で履いていたから。靴がないといけないのよ。山奥だから」
じゃあ学校に行けるようになったのは?「父がその後、金沢で仕事が見つかったからと呼び寄せてくれて」じゃあ小学生時代はほとんど学校には行けてないじゃないですか?
「そう。でも勉強は好きだったの。というか、なんでも一生懸命するのが好きだったから」で、すぐに幼稚園の先生を目指したんですか?「いえいえ、最初は小学校の教員を」ということは大学行ったわけですよね。ちなみにどこに進んだんですか?「金沢大学の教育学部」へ~、まともに学校に通えていなかったのに?すごいですね。「小学校では勉強で1度ね。1番になったことがあってね。おかげで、ず~っとイジメられっ子だったわ。それで逃げ場所は決まって図書室だったわ」

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幼稚園の立ち上げ
この幼稚園をはじめられたきっかけは?「お見合いで旦那と結婚してね。旦那は戦中戦後と、彼の父に代わって家族を支えてお寺をしていたのね。大変だったと思うは、10歳の時からお経上げていたって言うから…。最初わたしは小学校の教員をしていたんだけど、2年目の頃かな?最初は二人で、お寺の日曜学校みたいなものをやろうって話だったんだけども、ちょうどそのころに、この幼稚園の場所で公募があって、申し込んだら当選してね(笑)。それでこの幼稚園がスタートしたの!ほんとに運よね(笑)。
幼稚園の運営は大変だったんじゃないですか?「いや~これもやっぱり人との繋がりなんだね。やるって決めたら協力してくれる人が集まってきてね。」人となりという言葉があるけど、生来の性質ではないという彼女。人との繋がりが、行くは道を照らして自らを救うという彼女。

里親としての母、日本の母
DSCN9151先生そういえば、お子さんは何人いらっしゃるんですか?「5人いるのよ。幼稚園やりながらだったけど、子育ても楽しかったね~。毎日ワイワイやってて。里子もいたしね。」へぇ~、実のお子さんたちは受け入れてくれたんですか?「あの子たちも大したものよね。あのね、ある日ね。長男が私にいうのよ。あいつすごいねって。どうしてって聞くとね。知らん家に来て、あんなに元気でいられるなんて、すごいやってね。だから私言ったのよ。違うのよって、とっても辛い思いをしているからああやっているのよって。」
先生は里親として、これまでに14人の子どもたちを受け入れてこられた。さらに海外からはホームステイで108人の留学生も受け入れている。「海外からくる子はみんな自分をアピールするのが上手なのね。大したことでないことでも(笑)、僕はこんなことができる。すごいだろ!てね。それから比べると日本の子は、奥ゆかしいっていうのかな?自分の良いとこは?って聞いても言えないの。逆にダメな事ばっかりに目が行っちゃうのよ。ダメダメの日本人ね。でもね。海外の子に日本人の何がいいのって聞くと、日本人は優しいって口をそろえて言うわ」
一つひとつ、つぶさに先生の言葉を聞くにつれ、なぜこの人はそこまでできるのか?なぜそういう思いでいられるのか?という疑問がわいてくる。当然それでお金がもらえるわけもなく、逆に生活を切り詰めるわけになる。
「人は一人では生きていけない。面白いことに子どもたちの褒め言葉には父と母が出てくるの。親、友達、先生。子どもはつながりの中で育っていくのよ。だから繋がりが大切」
その当時の幼稚園の運営はどうだったんですか?「すぐに子どももいっぱいに」へ~すごいな「100人が200人、200人が500人って、どんどん増えちゃって、そのうち第2幼稚園を建てちゃったの。」建てちゃったのって、あっさり言うけどとんでもないことですよ。「だって増えちゃうんだもの(笑)。」
現場で子どもたちと、長年一緒にやってこられた先生に、思い出話を聞くと、とっても楽しそうに聞かせてくれました。「子どもってとっても感性が豊かなの。だから、付き合うコッチも親しい関係を築くことが大事なのね。しっかりと耳を傾けるのと、やっぱり子どもと付き合うには感性が大事、感性を磨くのね。こんな子がいたの、その日はとっても天気がよくって、桜が満開でとってもきれいだったの。」突然笑い出す先生「そしたらね、その子がね。先生、見てみて~っていうから、てっきり私は桜がきれいだから、そうね~キレイね~って言ったらね。いや違う違う。っていうのよ。何かと思っていたら、きれいな桜の中で踊っている私を見て~!!って。いや~まいった(笑)。ホント、ドラマがいっぱいよ。そうそう桜で思い出した!こんな子もいたの。男の子でね、桜の花びらが、こう、ふぁふぁふぁ~っと、舞って下に溜まるじゃない。そしたらそれを一生懸命小さい手でかき集めているの。私が何しているの~っていったらね。お母さんのお誕生日だからお母さんにあげるの~って。そしてね。お母さんがお迎えに来たときに、玄関でお母さんの後ろからその花びらを、頭からふぁふぁふぁ~っとかけて。お母さんお誕生日おめでとう!!って、お母さん喜びで泣いていたわ」
先生の感性豊かな脱線しまくりの会話についてくのが大変でした。が、その時の情景が目に映るすてきな語り部。手振り身振りで表現するその様子が心地よかったです。素晴らしい人って伝わるかな~。子どもの目線と同じ立ち位置に立てて、かつ大人の社会で活躍できる彼女のバイタリティー。
彼女は人に助けられて生きてこられた人生。と振り返られるが、いやいや。彼女の存在で救われてきた多くの子ども達や、親たちが見て取れます。
青竜幼稚園は、いわば彼女の人生そのもの。って言いたくなる気持ち、伝わりましたかね~。